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日田「小鹿田焼」

大分見聞録 この記事は約 3 分で読めます。

日田市の伝統的な民陶「小鹿田焼」は、「小鹿田」と書いて「おんた」と読みます。なぜ「おんた」と読むのかについてはミステリアスな逸話があり、鎌倉時代の「保元物語」に出てくる「鬼田与三」がこの地の出身者であることから、「鬼田」と言う地名とされ、「鬼」が「おん」と発音され「おんた」と呼ばれた説などがありますが、なぜ「鬼田」が「小鹿田」となったかについては、謎であるということです。

この地に小鹿田焼が開窯したのは江戸時代中期、宝永二年(一七〇五年)。日田郡大鶴村の黒木十兵衛が、筑前小石原村の陶工、柳瀬三右衛門を招いて李朝系の登り窯を築造したのが始まりで小石原焼の兄弟窯のため共通する技法が多いのも特徴のひとつです。

さらに、この地の坂本家が土地の提供者として加わり、小鹿田焼の基礎が築かれ、以来十軒の窯元が一子相伝の習わしを受け継いでいます。  昭和六年に民芸運動の指導者柳宗悦によって、その伝統技法と素朴な作調が紹介され、「日田の皿山」と讃えられ、九州民陶の里として知られるようになりました。更に昭和二十九年、柳宗悦の盟友イギリスの陶芸家バーナード・リーチ氏が三週間、皿山の人々と暮らしながら「飛び鉋」の研究をする傍ら様々な作陶を試みました。このころから世界的にも注目を浴びるようになりました。

また、昭和三十二年には、県の重要文化財、四十五年には国の記録保存文化財に、更に平成七年には国の重要無形文化財に指定され、二十年には「小鹿田焼の里」として重要文化的景観に選定されました。 「小鹿田焼」と言えば、「飛び鉋」または「打ち刷毛目」と言った技法を思い浮かべますが、他にも、「指描き」「櫛描き」、「打ち掛け」、「流し掛け」等の装飾技法があります。中でも「飛び鉋」、「打ち刷毛目」はお隣の小石原焼まで波及しています。 「小鹿田焼の里」は昨年七月五日に九州北部を襲った豪雨に見舞われ、大きな試練に直面することになりました。十軒の窯元は孤立状態となり、陶土を打つ唐臼は流され、そのうえ陶土の採掘場も被災。そこは一昨年の四月、熊本・大分地震で土砂崩れが発生し、翌年の梅雨明けに復旧工事に入るという矢先に再び崩れてしまったのです。

しかし幸いなことに、この集落ではひとりの命も犠牲になっておらず、窯元の坂本さんをはじめとする陶工の方々は、「小鹿田焼の伝統を絶やしはしない」と制作を再開。里の完全復旧、復興に向けて、地道な努力を続けておられます。

その素朴な形の中に、ときに優しく、ときに過酷な自然と深く向き合いながら、永い年月脈々と伝統を守り抜いてきた小鹿田焼の奥深さを感じられずにはいられません。

 

注釈 ※1鎌倉時代前期、保元の乱の前後二十八年間の出来事と、悲運の英雄、源為朝(みなもとのためとも)の末路を描いた軍記物語の先駆的作品。 ※2学問•技芸などの奥義•秘法を自分の子の中の一人だけに伝えること。 写真キャプション ◆脚で蹴って回す「蹴ろくろ」を使って、「飛び鉋」など独特の伝統技法で作られます。 ◆飛び鉋/特徴的な技法の一つで、蹴ろくろを回しながら、表面に鋼片を当て、帯状の模様を刻み入れる。

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