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大分市 毛利 空桑(もうり くうそう)

大分見聞録 この記事は約 5 分で読めます。
毛利空桑の胸像

「大分の中に熊本があった」と聞いて歴史に疎い筆者にはこれは初耳で違和感と興味を抱いたのですが、実はこの章の主人公「毛利空桑」(以下、空桑)の出生地「鶴崎」は江戸時代、肥後(熊本)藩の飛び地だったそうです。ちなみに旧藩時代は領地が複雑に交錯していたため、県内の各藩とも、飛び地を持っており、豊後国、大分県には、肥後領(熊本)、延岡領(宮崎)、島原領(長崎)の飛び地が多数あったとか。
では、なぜ「鶴崎」は肥後藩の飛び地になったのでしょうか?元々「鶴崎」は大友家家臣、「吉岡氏」が治めていた豊後国の領地でしたが、後に関ヶ原の戦いで功績を納めた「加藤清正」(肥後藩主)が「徳川家康」から与えられたそうなのです。清正は、参勤交代など、上方との交流に天草よりも鶴崎の方が利があると踏んだのでしょう。その後、細川氏によって引き継がれてからも肥後五十四万石の港として内海航路の要衝となり活況を呈したと言われます。空桑の父親は肥後藩の藩医、毛利太玄。空桑は寛政九年(一七九七年)その第二子として「鶴崎」に生まれましたが、もしここが熊本藩の飛び地でなかったら空桑は大分の先哲たり得なかったでしょう。
空桑は一四歳の時、地元、高田郷で塾を開いていた脇蘭室に入門。ここで漢学、尊皇攘夷を学びます。その三年後には帆足万里に学び、さらに熊本の大城霞坪、福岡の亀井昭陽にも教えを受けるなど、熱心な学徒だったのです。文政七年(一八二四年)二八歳の時には父に呼び戻され帰郷し自宅を建て、私塾「知来館」を開塾。門下生は千人を越えたともいわれ、地元はもちろん、遠くは新潟・福井・岐阜などからも集まったそうです。

毛利空桑記念館
六四歳の時には「藩校」の必要性を説き、熊本藩、地元有志らと共に「成美館」(現在の鶴崎小学校)を設置しました。空桑は学問のみならず武道にも長け、「文ありて、武なきは、真の文人にあらず」「武ありて、文なきは、真の武人にあらず」という格言を遺したように「文武両道」の教育環境を実践しました。

幕末、明治維新に至る不安定な激動期、県内諸藩も幕府か、天皇かとの迷いの中にあり、空桑に意見を求めることがあった中、吉田松陰をはじめとする他県の勤王家や密使の来訪もあとをたたなかったと言われます。明治三年(一八七〇年)空桑七三歳の時、助けを求めて長州藩から敗走した大楽源太郎一派を匿い、竹田・久留米に送り逃がしました。しかしそのことが肥後藩主に露見し、空桑は親子共々投獄され一年後には釈放されましたが、家禄も士族の位も剥奪されたのでした。それでも屈強な精神は衰えず、明治一四年(一八八一年)鶴崎に大分県初の政党、天壌社を結成しました。 四十歳ほど歳の差がありますが、同じく時代の転換期に活躍した「福澤諭吉」を忘れてはなりません。諭吉は若くして渡米し、その後、和英辞典の先駆けとなる辞書を編纂するなど、欧米列強の文化を学び、帰国。その高い能力を認められ幕府の要職に取り立てられるほどの功績を残しました。しかし、二度目の渡米後は政局から身を引き、慶應三年(一八六八年)私塾、「慶応義塾」を開き教育者としての道を邁進していったのです。
動乱期に活動し、私塾を開いたことは、空桑と重なる部分がありますが、諭吉は攘夷派に暗殺されかかるほどの「幕臣」。片や空桑は筋金入りの尊皇論者。両者の政治的信条には大きな隔たりがあったと思われますが、共に時代の「軋み」に翻弄されながらも、近代日本の基礎づくりに奔走した「侍」であったことには間違いはないでしょう。さらには、両者は共に、ふるさと大分が輩出した先覚者であったことが、なによりも誇らしいことではないでしょうか。

注釈
*1鶴崎:鶴崎は古くは、豊後国大分郡高田郷と呼ばれた。空桑はその常行村で生まれた。
*2脇蘭室:(わき らんしつ)江戸時代末期に活躍した豊後国速見郡小浦村出身の儒学者。
*3尊皇攘夷:(そんのうじょうい)江戸末期、尊王論と攘夷論とが結びついた政治思想。朱子学の系統を引く水戸学などに現れ、下級武士を中心に全国に広まり、王政復古・倒幕思想に結びついていった維新期に昂揚した政治スローガン。
*4帆足万里:(ほあし ばんり)豊後国日出藩出身の江戸時代後期の儒学者・経世家・日出藩家老。字は鵬卿。号は愚亭など。三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人。
*5大城霞坪:(おおき かへい)肥後藩の藩校・時習館教授
*6亀井昭陽:(かめい しょうよう)江戸時代後期、古語の意義を具体的な事例から一般に通用するような原理?法則などを導き出し古典の本旨を知るべきだとした古文辞学系、荻生徂徠?(おぎゅうそらい)?の唱えた儒学の一派。
*7吉田松陰:(よしだ しょういん)江戸時代後期の日本の武士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。
*8勤王家:(きんのうか)天皇のために忠義を尽くす人。特に江戸末期、佐幕派(反幕勢力たる勤王派に対して幕臣や譜代大名を中心とする幕府政策を擁護する勢力。)に対し、天皇親政を実現しようとした思想を持つ人。
*9大楽源太郎:(だいらく げんたろう)。儒学を学び、塾を開いた。尊王攘夷の志士として活動。大村益次郎[おおむらますじろう]が襲われた事件などへの関与を疑われ、逃げた先の久留米で暗殺さた。
*10攘夷派:(じょういは)幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想を持つ一派。
*11幕臣:(ばくしん)幕府の臣下。旗本・御家人など、将軍直属の家臣。
*12尊皇論:(そんのうろん)皇室を神聖なものとして尊敬することを主張した思想。明治以後の絶対主義的天皇制の基礎となった。

写真キャプション
■空桑思索の道:毛利空桑の胸像の向こうに熱心な日蓮宗信者だった加藤清正が建立した雲鶴山法心寺がある。東に進むと大通りを越えて剱八幡宮。ここは参勤交代船団の豪勢な入港の様子を描いた絵馬や「けんか祭」が有名。その間に、毛利空桑の塾・知来館と居宅・天勝堂(ともに県指定史跡)が残り、資料館がある。
■毛利空桑記念館:空桑の自宅だった天勝堂、私塾の知来館と資料館の3つで構成されている。

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毛利空桑の胸像

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