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臼杵市 臼杵城跡

大分見聞録 この記事は約 4 分で読めます。

◆指定文化財 大分県史跡

臼杵市のシンボリックな景観として臼杵城跡を挙げる方も多いと思います。さて、この臼杵城を築城したのは誰かというと、ご存知の大友義鎮(よししげ)ことキリシタン大名、大友宗麟と言われています。ちなみに「宗麟」とは法名です。

臼杵城は別名、丹生島城、亀城とも言われ、築城年は弘治二年(一五五六年)で、干潮時のみ陸続きになる天然の要害と言われた、臼杵湾に浮かぶ「丹生島」に築城されました。しかし築城以前から大友氏の砦として活用されていたらしく、一六代大友政親の時代に一時的に臼杵が本拠地となっていたという歴史があるようです。

宗麟はもともと、大分市府内の大友館を拠点としていましたが、当時のポルトガル人宣教師がイエズス会へ送った書簡によると、謀反を起こした家臣たちから逃れるために「城のごとき島(臼杵城)」へ移ったという記録があるようです。

この「城のごとき島に住む戦国武将」大友宗麟を慕って、家臣や府内のキリシタンたちが大挙して臼杵へ移住し、城と武家屋敷だけしかなかった城下の開発に取りかかり(町八町の起源と言われています)一五六〇年代には臼杵教会を宗麟の援助のもとで建立しました。現在の臼杵の町の基盤は、このキリシタン達によって拓かれたと言っても過言ではなく、今も町内にエキゾチックな雰囲気がひっそりと息づいています。

宗麟は臼杵城を本拠地とし、ポルトガルや中国、東南アジア諸国と海外貿易を積極的に行い、財をなしました。一五六〇年には九州六カ国(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職と九州探題に就き、晩年一五七八年、臼杵の教会で洗礼を受け、フランシスコ・ザビエルにちなんでドン・フランシスコと名のりました。この後、日向国の務志賀(むしか・現、延岡市)にキリスト教の理想郷をつくるために出陣しましたが、耳川の合戦で薩摩の島津に破れてからは衰退し一五八七年、秀吉の九州平定の後、五七歳の人生を終えました。

宗麟亡き後、文禄・慶長の役で嫡子である義統が敵前逃亡の咎めをうけ改易され、福原直高が三年間臼杵城に居城。その後、大分市の府内城に本拠を構え、そのかわりに慶長二年(一五九七年)太田一吉が入城して、城下の復興や城の近世城郭化を行い、現在の臼杵城の礎を築きました。

関ヶ原の戦いの後、慶長五年(一六〇〇年)に稲葉貞通が入城、二代目の典通に渡って修築が行われ現在のような形となったといわれます。臼杵城は稲葉貞通以後、明治維新まで、稲葉氏一五代の居城となりました。 明治四年の廃藩置県後、臼杵城の大部分の建物は取り壊されましたが、稲葉頼が明治十年、薩摩軍の奇兵隊の進攻に備え篭城し、応戦するも落城。しかしその後、新政府の援軍により奪還されました。

栄枯盛衰を経て、臼杵城跡は昭和四一年に県の史跡に指定されることとなり、平成一三年には二の丸大手門の大門櫓が復元。平成二九年続名城百選に選出され、現在では、臼杵公園として臼杵市民のいこいの場として親しまれています。また春には桜の名所として県内外から多くの観光客が訪れています。

 

注釈 *1法名:仏門に入って出家受戒のときに授けられる名。宗麟はキリスト教の洗礼を受ける前、当初は禅宗に帰依していた。 *2嫡子:ちゃくし 家督を継ぐ者。普通は長男。また、一般的にその家を継ぐ人。 *3改易:かいえき 武士の身分を剥奪し、領地•家屋敷などを没収する刑。 写真キャプション ■臼杵城跡には、「丹生島城の戦い」で島津軍を退却させたという、日本で最初に使われた大砲「国崩し」のレプリカが設置されています。 ■臼杵城は別名、丹生島城、亀城などとも言われ廃藩置県以後、明治政府により城の大部分が取り壊され現在は臼杵公園として市民の憩いの場となっています。また、春には桜の名所として広く知られています。

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