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豊後大野市 彫刻家「朝倉文夫」

大分見聞録 この記事は約 3 分で読めます。

東洋のロダン」と称された彫刻(彫塑)家朝倉文夫(以下朝倉)は明治十六年、上井田村(現朝地町)池在に当時村長であった渡辺要蔵の三男として生まれました。九歳のとき養子として朝倉家を継ぎ、十九歳のとき旧制竹田中学校を中退して俳人をめざし、正岡子規の門戸を叩くべく上京しましたが正岡の死去により夢破れ、彫刻家である兄を手伝う内に、彫刻の道を決意しました。

明治三十六年、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学を果たしました。在学中に千二百点に及ぶ多数の作品を制作し、明治四十年、首席で卒業。大正八年に帝展審査員となったのを皮切りに、同十年に東京美術学校教授、同十三年に帝国美術院会員となり、昭和二十三年には文化勲章を授与されています。

その間、「墓守」など数多くの傑作を発表、驚異的な質と量の作品を遺し、いわゆる「自然主義的写実主義」を確立しました。  朝倉は、専用の制作道具を自分でこしらえるなど物に拘った芸術家として知られ、日用品も職人の技を感じるものを好んで愛用していたようです。また、熱心なコレクターでもあり、多くの美術品・工芸品、とりわけ繊細なガラス細工や竹工芸に強く興味を示し、趣味人としての一面も覗かせています。

動物が好きで、特に猫は多い時は十匹ほど飼っており、作品にも猫を題材としたものが多く、中でも「たま」と言う猫は作品名として残すほど気に入っていたようです。猫をリアルに表現するために、抱いて撫でながら骨格や筋肉を探り観察していました。晩年「猫の百態展」を開催する夢を描いていましたが、作品は五十点ほどに留まりました。 数々の賞を受けた朝倉でしたが、後輩彫刻家の育成にも力を注いでおり、東京美術学校(現・東京芸大)の教授として、また朝倉塾を通じて日名子実三など多くの彫刻家を輩出し、我が国の芸術振興に寄与。昭和二十六年には文化功労者となりました。

晩年、朝倉は故郷に梅園の中に美術館を造る構想を抱き、自費で造成を始めましたが、朝倉の死によって中断。その後有志の方々に引き継がれ平成三年に「朝倉文夫記念館」として完成しました。  朝倉を顕彰し、当地で開催される若手彫刻家の登竜門とも称される大分アジア彫刻展も開催。ぜひ朝倉芸術のすばらしさを堪能してください。

 

写真キャプション ■朝倉 文夫 (1883~1964) ■「仔猫の群れ」 1927年 朝倉文夫は晩年、猫を題材とした作品を数多く残した。

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