杵築市 杵築城
■藩主御殿跡/大分県指定史跡。台山地区・藩主御殿地区/国指定史跡。
杵築城は三方を川と山に囲まれ、風光明媚な守江湾を望む八坂川河口の台山にあり別名、勝山城とも臥牛城とも言われています。 臥牛城といえば地形が牛が臥した形に似ていることに由来していますが、同じ呼称では竹田の岡城阯が有名です。
この二城の共通点として天然の要害とも言える立地が挙げられ、実際、共に難攻不落の城として戦国時代を耐え抜いた歴史があります。しかし広大なスケールを誇る岡城阯に比して、かたや杵築城は、日本一小さい天守閣の城と言われていますが、前述のように激戦に耐えた小粒ながら侮れないタフな城でもあるのです。 それでは杵築城の歴史を紐解いてみましょう。ちなみに杵築城は本来「木付城」と表記されるべきところが杵築三代藩主、松平重休の時代に徳川家宣からの朱印状に「杵築」と書かれたことから現状の表記と「きつき」という読みになったとされています。
「杵築城」は、豊後大友氏の親重が八坂郷木付荘に入り地名の「木付」を姓とし、「竹の尾城」を築城したことがはじまりで、木付氏四代頼直の時代に現在地に移転しました。 この城は城主が幾度か変わりましたが、木付氏が一七代の長きに渡って治めたということです。 前述のように杵築城は大きな戦火に見舞われましたが、そのひとつは戸次川の戦いに勝利した島津家久が府内の大友館を襲ったあと、「鬼武蔵」の異名を持つ家臣、新納忠元の大軍が杵築城を攻撃した戦です。
この時の木付家当主は、十六代、木付鎮直。その子の木付統直と共に二ヶ月に渡り篭城し奮闘しました。その際、豊臣秀吉が発した援軍が続々と九州に上陸したため新納忠元が撤退を開始。それを機に追撃し、島津勢に大打撃を与え、勝利を納めました。ゆえに木付城は「勝山城」と呼ばれたと言われます。その後、朝鮮での大友義統の失態が豊臣秀吉の逆鱗に触れ、同じ大友氏族である木付家も歴史を閉じることになります。
歴史が流れ、城主が前田氏、杉原氏、細川氏と続くなか、細川忠興の時、「関ヶ原の戦い」が勃発。これは日本各地が戦場となった戦ですが、細川忠興は徳川家康方(東軍)に付きました。一方、石田三成方(西軍)には大友義統が付き、杵築城に毛利輝元と共に猛攻撃を仕掛けて来ました。大友氏が築城した城を同じ大友氏が攻撃するという歴史の皮肉を正面から叩き付けられた杵築城ですが、豊臣秀吉に天下をとらせた家臣と言われる名将、中津城主、黒田勘兵衛が落城寸前の杵築城を支援し戦況が逆転、杵築は東西両軍の九州最初の大激戦地となったのです。
黒田・細川軍は大友軍を追撃、九州の関ヶ原と言われる「石垣原の戦い」に発展。大友軍は大敗し、この戦の勝利が黒田勘兵衛の九州平定の礎となりました。その後、細川氏が熊本城へ転封し、小笠原忠知が大名となり杵築藩が成立しました。小笠原忠知が三河・吉田城へ転封後は、かわりに松平氏が治め、台山の麓に御殿を築き、山城部を廃棄しました。本丸の天守は落雷で焼け落ち、長い間、再建されることはなかったと言います。ちなみに現在の天守は三層三階の模擬天守で、一九七〇年に建築されています。
「きものが似合う歴史的町並み」に認定され、時代劇のロケ地で有名になったり、「サンドイッチ型城下町」と命名されるなど、近年話題の多い城下町杵築。その町を歴史のうねりに翻弄されながらもじっと見守って来た「杵築城」。小振りなれど凛として佇むその姿は、時代がどう変わろうとも杵築のランドマークであり続けるでしょう。
注釈 ※1要害:地形がけわしく守りに有利なこと。また、その場所。 ※2石垣原の戦い:1600年(慶長5年)現別府市北石垣での戦闘。「九州の関ケ原」ともいわれる ※3転封:(てんぽう)幕府の命令で、大名の領地を他に移すこと。移封、国替え。 写真キャプション ■杵築城と街並。 ■杵築城/別名、木付城・台山城・臥牛城・勝山城とも呼ばれ、応永元年(1394年)大友氏、木付頼直によって築かれたと言われる。 頼直は竹ノ尾城を居城としていたが、海と断崖に囲まれた現代の台地に築城した。