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国東市 峨眉山文殊仙寺

大分見聞録 この記事は約 5 分で読めます。

■大分県指定有形文化財/・梵鐘・銅鰐口・文殊仙寺石造十王像・文殊仙寺石造仁王像
大分県指定天然記念物/・文殊仙寺の自然林 大分県指定史跡/・峨眉山文殊仙寺

「三人寄れば文殊の知恵」。聞き慣れたこの諺、凡人でも三人集まって考えれば文殊様と同じくらい知恵が出せるかもしれないという意味ですが、この文殊様とは文殊菩薩のことで智慧を司る仏様のことです。
日本の三文殊としては奈良県桜井市の安倍文殊を第一とし、京都府宮津市智恩寺の切戸文殊、山形県高畠町の亀岡文殊。京都市の中山文殊と、さらにこの国東半島の文殊仙寺の二つを加えて数えられることが多いと云われています。この寺院は国東六郷満山の末山本寺で、とりわけ本殿奥の院文殊堂は江戸期に小倉城主、細川公の寄進により幾度も改修を重ね、文殊仙寺最古の建築物として現在に至っています。
また後に杵築藩主松平公の特別祈願所となり、寺紋に松平家の家紋(雪持ち笹)を使うことが許された由緒ある寺院でもあるのです。


六郷満山では仁聞菩薩の開山といわれる寺院がほとんどですが、ここだけは七世紀後半の山岳修行者役小角、またの名を役優婆塞の創建と伝えられています。では役小角とは一体どのような人物だったのでしょうか。仁聞菩薩がミステリアスな人知を越えた力をもつ伝説的な存在であったと伝えられていることに対し役小角にも、日本の山岳宗教である修験道の開祖として崇拝されつつ、多くの奇跡を生んだという逸話があることで、実在を疑う説もありますが『続日本紀』に、伊豆島に流刑された記述があることから、その実在が確認されています。 役小角は山岳修行しながら陰陽道、神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立しました。そして吉野金峰山や大峰山、この文殊山、その他多く開山しましたが、これが因縁か保守的な神道側から妨害され、伊豆島に流されたのでした。
では、なぜ役小角はこの地に文殊仙寺を創建したのでしょうか。それは国東半島で修行中の時、文珠山に霊気を感じ、その後、中国の五台山に登り文殊菩薩を拝した際、菩薩から「五台山に似た土地が日本にないか」と問われ、「豊州国埼郡にある」と答えると、「そこで待て」と言われました。国東で待っていると、文殊が訪れたそうです。六四八(大化四年)年役小角はすぐさま寺院を創建したと云われています。
後に境内には二十五の堂宇が建ち並び、百数十名の僧侶が生活をしていたとされるほど繁栄した文珠山寺でしたが、明治新政府の神道国教化政策にともなっておきた「廃仏毀釈」という仏教文化の破壊活動の洗礼を受けました。神を仏として仏を神とする神社と寺院とが一体となって存在していた神仏習合六郷満山にあって、全く皮肉な歴史の渦に翻弄されたのです。被害を受け一時は衰微したものの、多方からの浄財と、敬虔な信仰により復活しました。
本殿奥の院の文殊堂がある岩窟から湧く「知恵の水」をいただくと知恵が授かるとされ、受験生や多数の人々で賑わい、大吉祥菩薩としての信仰も厚く、良縁成就、安産祈願の参拝者も多く訪れます。美しい自然や、文化財を見ながら昇る石段の先に鎮座する本殿の凛とした美しい佇まいに、心が浄化される思いがします。

注釈
*1末山本寺:国東半島の寺院群は、学問をするため本山(もとやま)、修行をするための中山(なかやま)、布教をするための末山(すえやま)の3つの群に分けられ、合わせて満山と呼ばれていた。国東半島の寺院を総称して六郷満山と呼ぶ。
*2仁聞菩薩(にんもんぼさつ):六郷満山を開いたといわれる宇佐神宮に祭られた八幡神の 化身で、国東の山々で、70年におよぶ修行をしたという謎に包まれた人物。
*3修験道(しゅげんどう):山へ籠もって厳しい修行を行い悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰。仏教に取り入れられた日本独特の宗教。
*4陰陽道(おんみょうどう):天空の運行や方位から吉凶を占い、思考や行動上その方針を得る技術。
*5神仙術(しんせんじゅつ):、不老不死の仙人になるための方法。
*6密教:大日如来を本尊とする真言秘密の教え。大乗仏教の思想を基盤とし、ヒンドゥー教の影響も受けて成立した。
*7堂宇(どうう):四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物。お堂。

写真キャプション
■本殿奥の院文殊堂/大化4年(648年)に、中国の五台山から迎えた文殊菩薩が本尊。ご本尊は十二年に一度卯年の春・秋大祭において開帳される。文殊仙寺の自然林は、大分県の天然記念物の指定を受けている。

■文殊仙寺仁王像〈阿形〉
文殊仙寺の参道沿いに立つ仁王像。安山岩系の石材から丸彫りで制作されている。口を開けている阿形像【あぎょうぞう】は像高181.9cmで、右手を腰に当て、左手に金剛杵を握ってふりあげており、天衣は風に翻って頭上に及んでいる。口を閉じている吽形像【うんぎょうぞう】は、像高172.2cmで、右手を曲げ、手のひらを正面に向けて胸側に置き、左手に拳をつくり左腰に当てている。文政9年(1825)の記録によると、永和年中(1375~1379)に順弘法印が住職の時、石造十王像とともに制作したと記録されており、動きのある仁王像を力強く表現し、片足に重心をのせた安定感がある体勢の作品。頭部を小さくし、体部に充実感をもたせた造形が特長。

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