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竹田「岡城跡」

大分見聞録 この記事は約 3 分で読めます。

岡城は、稲葉川と白滝川によって浸食されてできた標高325mの台地に築城されました。深い渓谷にはさまれ、四方を絶壁で囲まれた川岸からそそり立つその姿は、「難攻不落の城」と呼ばれるにふさわしい天然の要塞を感じさせるものがあります。

牛が臥せている形に似ていたところから別名、臥牛(がぎゅう)城とも呼ばれ、昭和11年(1936)12月16日国の史跡に指定されています。また財団法人日本城郭協会が定めた名城の一覧である「日本100名城」にも選出されました。

岡城は、文治元年(1185)現在の豊後大野市緒方の猛将と言われた、緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と対立していた弟、義経と結び、彼を迎え入れるため築城したと伝えられていますが、惟栄は大持浦(兵庫県)を出航する際、捕らえられ義経と離散。翌年には上野国(群馬県)沼田荘に流されてしまい、思いは実現できませんでした。豊後を支配していた惟栄の大神(おおが)一族も後に大友一族にとって替わられました。

鎌倉幕府滅亡後の南北朝中期、豊後国守護大友氏の支族、志賀貞朝(さだとも)が直入郡に進出し、応安2年(1369)以後、岡城は長らく志賀氏の居城になりました。

天正14年(1586)から15年にかけて勃発した豊薩戦争に際して、島津三万七百余りの大軍が岡城に襲来しましたが、志賀親度(ちかのり)の子で当時若干18歳の親次(ちかつぐ)は3度に渡る攻撃に耐え、城を守りぬき、豊臣秀吉から感状を与えられたそうです。

しかしその後、文禄2年(1593)大友宗麟の嫡男、義統(よしむね)が領地を没収されると大友支族である親次も城を去りました。ちなみに最近の研究では、親次はキリシタン大名大友宗麟の外孫で熱心なキリシタンで、臼杵の教会で洗礼を受けドン・パウロとなり、神父を招くなど岡城下にキリスト教を広めようと努めたとされています。

志賀氏が去った後、文禄3年(1594)、播磨三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余で竹田に入り、志賀氏の館を仮住居とし急速に近世城郭の築城を進めました。  本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1663)には岡城の主要殿舎とされる西の丸御殿が造られました。岡城は山城的殿舎、平山城的殿舎、平城的殿舎で構成され、これらが一体となっている特異な城郭として位置づけられています。

現在残っている城郭は、明治まで岡藩主であった中川公によって築城されたもので、趣味人であった第5代藩主、中川久通(ひさみち)は北側にある絶壁に三日月を彫らせ、中に明かりを灯し、月見の宴を楽しんだそうです。しかし明治2年(1869)版籍奉還による廃藩置県で中川氏は東京に移住し、城の建物は明治7年(1874)すべてが取り壊されました。治7年岡城は緒方氏から志賀氏、中川氏と、城主が替わって行く中で、その時代に求められる形に変遷を遂げ洗練されていきましたが、最期には「荒城」となってしまいました。

しかしその歴史に、竹田を代表する滝廉太郎の音楽という文化が重ね合わされ、深みを増し、春は桜、秋は紅葉と、四季折々の姿で訪れる人々を魅了し、今もなお愛される魅力に満ちています。

 

写真キャプション ■二ノ丸跡に設置されている「荒城の月」瀧廉太郎の銅像。 ■満開の桜のなかに佇む、岡城跡。

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