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竹田市 白水ダム

大分見聞録 この記事は約 4 分で読めます。

◆正式名称「白水溜池堰堤水利施設一溝」 大分県近代化遺産 国指定重要文化財第1号(平成十一年 五月十三日指定)

緒方川と大野川にはさまれた高台の農村地帯で、日本の棚田百選にも選定された緒方町軸丸地区。今でこそ当地で有数の米どころと評されていますが、ここに至るまでは苦難の連続だったのです。  軸丸地区は高台であるが故に、「水」が乏しく、湧き水を利用していたため、潤す水田もわずかしかなく藩の年貢米取り立てに農民は苦しめられ、江戸時代末期には百姓一揆なども起こりました。

幕末の動乱期、安政五年(一八五八)に軸丸地区が納めた年貢米が藩の倉で「むれ米」となりました。藩は農民の窮状を黙殺し、良い米と取り替えるように強要。農民はこれに代わる米などあろうはずがなく、土地を手放したり、借金で急場をしのぎました。(むれ米事件)  悲劇は続き、慶応三年(一八六七)には干ばつに見舞われ、雑草の根をかじって飢えをしのいだという壮絶な話も伝えられています。

この時、農民救済のためにひとりの大工が立ち上がりました。後に富士緒井路開削の発起人となった後藤鹿太郎です。彼は井路を作り軸丸地区に水を導き、新田を開発しようとしたのです。そして誰ひとり協力する者もない中、ひとりで測量を重ね、竹田市次倉の大谷川に水源を見い出し、私財を投げ打って方策を探り続けました。

しかし大事業であるがために難航し、明治二八年(一八九五)中止となりました。その後、数多くの人々の手と紆余曲折を経て、大正三年(一九一四)通水の運びとなりました。

ところが大谷川の水量はそれほど多くなく、石組の井路は水漏れが激しく、末端まで充分に水が行き渡らないことがしばしば発生し、農民の水争いも激しくなる一方でした。川の水量増加が見込めない以上、ダム築造が急務となったのです。

このダムが「白水ダム」であり、このダムの設計・監督の任に就いたのが大分県農業土木技師「小野安夫」でした。ダムの候補地は二ヶ所上がり、河床地盤が厚く、地質が幾分良好である現在地が選ばれました。しかし一帯は脆弱な阿蘇溶岩であり、岩盤の弱さと漏水が彼を悩ませたのです。

河床に落下する水の圧力をどう減力するか、また側壁に無理がかからないようにするための創意工夫が必要でした。右岸はなめらかな曲線とし。水をゆるやかに滑らせ、左岸はカスケード(小滝)を階段状に重ねて水圧を分散し、堰堤表面には小さな切石を積み重ね、溢れる水を泡状にすることで水圧を落としているということです。

昭和九年(一九三四)九月着工、日本で最も美しいダムは、小野と豊後石工の英知と努力を結集し、昭和十三年(一九三八)三月に竣工しました。 水道の蛇口をひねると、あたりまえのように「水」が出てきますが、報道等でご存知のとおり、ひと度被災した場合、「水」の確保が重要であることは言うまでもありません。

水の確保は命を守り、人々の暮らしや、営みにとって大切なライフラインとなっていることは厳然たる事実です。だからこそ先人達が、「高台の水田に水を揚げ、水を張る」という課題に向き合って流した尊い汗と、労苦の歴史に思いを巡らし、当たり前に「水」があることの幸せ、そしてその恵みに感謝することが大切だと思います。 注釈 ※むれ米:*品質が悪くなった。

写真キャプション ■白水ダム左岸からの景観。落下する水圧を分散させるための階段状のカスケード(小滝)が見える。(写真向かって右側中央) ■白水ダム右岸からの景観。建設地の地盤の弱さ故に、左右の護岸の水圧を減力する必要があり、堰堤の表面に切石を積み上げ、流れ落ちる水を泡状にして水圧を抑えた。これが独特な白い水流美を生み出すこととなった。

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