大分市 本場鶴崎踊大会
本場鶴崎踊大会は毎年八月、大分市の鶴崎公園グラウンドで、旧盆過ぎの土曜日と日曜日の両日開催されています。
本場鶴崎踊大会は盆踊りですが、踊り子が纏う衣裳も一際華やかで、囃子も、横笛あり胡弓ありと充実。他の地区で開催される盆踊りとは一線を画すほどの豪華さ、絢爛さがあります。ちなみに四百年以上の歴史を持つこの踊りは一九八二年に国の選択無形民俗文化財となりました。
鶴崎踊には、十二の所作からなる、しっとり優雅な「猿丸太夫」と七つの所作からなる軽快な「左衛門」で構成されています。まず「来ませ 見せましょ 鶴崎踊 いづれ劣らぬ 花ばかり」という歌詞がついた「猿丸太夫」に始まり、「豊後名物 その名も高い 踊る乙女の 品のよさ」と歌う、「左衛門」に続きます。 現在では「猿丸太夫」が主に踊られていますが歴史的には「左衛門」の方が「大友宗麟」の時代からと古く、「猿丸太夫」は江戸中期の伊勢踊りに通じているのではないかといわれているようです。
まず、「左衛門」の起源をたどると一五六◯年頃(永禄三年頃)にさかのぼります。「大友記」などの歴史書によれば、当時の豊後国主「大友宗麟」は酒色にふけり、政を怠ることがしばしばあったといわれ、これを憂慮した重臣「戸次鑑連」(立花道雪)が諌めようとしましたが、なかなか面会に応じようとしませんでした。そこで鑑連は面会の機会を得るために画策。京都から踊り子を招き、連日踊らせました。
それを聞きつけた宗麟は、あの鑑連らしからぬ所行と不審に思い、様子をうかがいに鑑連のもとを訪ねました。鑑連は「三つ拍子」という踊りを踊らせ、宗麟の機嫌が良くなったところで忠言。宗麟は快く聞き入れたということです。この時の踊りが三つ拍子「左衛門」の始まりとされています。
時代が江戸に移り、(一七〇四~一七一一年頃)この時代、鶴崎は肥後細川氏の飛び地で藩主の江戸参勤の発着地として、京・大阪との交易の港町として大変栄えていました。このような豊かな背景もあり、町民は芸能にも関心が高く、当時流行していた「おかげ参り」に伊勢神宮に参拝に趣いた折、「伊勢踊」を覚えて帰り、鶴崎に定着したものが「猿丸太夫」ではなかろうかとされています。
このように古くからの伝統を受け継ぐ本場鶴崎踊は、鶴崎おどり保存会主催の踊講習会の開催や、町内会、その他団体の弛まぬ継承活動、さらには、地区の人のみならず大会当日には、事前申込により鶴崎踊りを踊れる人なら飛び入り参加できるなどの柔軟な運営で、多くの人々が踊り子となって楽しめるオープンな祭典となっています。
大分市の真夏の一大風物詩として地元鶴崎地区はもちろん、市内・県内からも、たくさんの見物客や観光客で賑わいます。
写真キャプション ■鶴崎踊の、三っ拍子、左衛門誕生のきっかけとされる大友宗麟。 ■この日のために練習を重ねて来た保存会や町内会、その他の団体の踊り子およそ1000人の皆さんが、幾重にも連なった絢爛豪華な踊りの花を咲かせます。