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竹田市 瀧廉太郎

大分見聞録 この記事は約 4 分で読めます。

◆音楽家・作曲家。東京都出身、明治十二年(一八七九)八月二四日生まれ。明治三六年(一九〇三)六月二九日病死、享年(二三歳)。

竹田と言えば「岡城」、そして名曲「荒城の月」へと続き、「瀧廉太郎」へ…。このように連想する人は少なくないと思います。

今でこそ小学生でも連想できることですが、明治から長い間、一般的には瀧廉太郎と岡城址の因縁など知る由もなかったと言われています。それは瀧廉太郎の非凡な才能が東京音楽学校(現東京藝大の前身)関係者や評論家、識者たちの間では高く評価されていたにもかかわらず、あまりにも若く急逝したため、彼が幼少期、竹田で過ごしていたことや岡城址でよく遊んでいたということなどを記述した公の出版物・資料もほとんどなく、まさに「知る人ぞ知る」という存在であったからだとか。

ちなみに現在でも「雪やこんこん」、「鳩ぽっぽ」、「お正月」など、誰もが幼い時に愛唱したであろう歌も、瀧廉太郎が作曲したものであることを知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。

「瀧廉太郎」と「荒城の月」、「岡城址」の関係は、昭和一七年、東京神田の春陽堂出版の瀧廉太郎を題材とした木村毅氏著作の小説、「荒城の月」で竹田岡城址の写真が掲載されたことで、全国的にも知られるようになったといわれています。 荒城の月の作詞は「土井晩翠」ですが、では、この曲はどのような経緯でできたのでしょう。

物語はまず、土井晩翠に東京音楽学校が中学唱歌の作詞を依頼した事から始まります。出来上がった土井晩翠の詩に対し、東京音楽学校は作曲の懸賞募集をかけました。そこに瀧廉太郎が応募して、みごと一位をとり、採用されたということです。

明治時代の学校唱歌はほとんど外国の借り物の旋律に、難しい日本語の詩をむりやりはめ込んだ違和感が拭えない曲が多かったらしく、荒城の月は初めての日本人の手による作詞、作曲で、文字通り「日本の唱歌」として近代日本の教育音楽に一石を投じる名曲との評価を得るに至りました。

現代でも七五調に作られた無常観ただよう切ない詩と、哀愁を帯びたヨーロッパ調の旋律が融合した、奥深い楽曲として愛されていることは言うまでもありません。

明治三四年、瀧廉太郎はドイツへ留学しましたが、肺結核を煩い翌年の三五年、帰国の途につきました。その途中、作詞家である土井晩翠とロンドンのテムズ川河口の船上で初めて対面しますが、若き芸術家同士、つもる話もあったでしょうが、これがまさに一期一会でした。

瀧廉太郎は帰国後、「別れの歌」、「水のゆくえ」、「荒磯」、「憾」を作曲。明治三六年六月二九日、療養の甲斐もなく、大分市稲荷町にて亡くなりました。享年二三歳でした。 毎年十月、竹田では瀧廉太郎を顕彰するため、瀧廉太郎記念全日本高等学校声楽コンクールが開催されています。戦後まもない昭和二二年に創設され、第七二回目を迎える今年は新設の「竹田市総合文化ホール グランツたけた」で行われました。

このコンクールでは、優秀受賞者に音楽の都ウィーンへの留学助成金が贈られるなど、多くの声楽家を輩出する、声楽家の卵たちの登竜門となっています。

ホールに響く、美しく瑞々しい歌声が、ハイレベルな芸術の感動を与えてくれます。

 

写真キャプション ■瀧廉太郎記念館。瀧廉太郎が12歳から14歳まで暮らした屋敷。手紙や写真、直筆の譜面などが展示されている。 ■岡城址二の丸跡に、凛として佇む瀧廉太郎像。作者は竹田高等小学校の後輩、朝倉文夫。他にも、出身地である東京の上野公園、終焉の地大分市、瀧家ゆかりの地で瀧家の菩提寺がある日出町に置かれている。

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