国東市 三浦 梅園
◆哲学者・教育家で村医を兼ねる。現在の大分県国東市安岐町に亨保八年(一七二三年)八月二日誕生。寛政元年(一七八九年)三月十四日没。(享年六七歳)
三浦梅園(以下、梅園)と言えば江戸中・後期に活躍した偉人、帆足萬里、広瀬淡窓と並んで、豊後三賢と称された先哲です。梅園のことをなんとなく、立派な人物だと「常識的」に捉え(あるいは教えられ)ている人は多いと思いますが、梅園が尊敬に値する立派な人物であるというこの「常識」を徹底的に解き明かそうとする人は、一部の識者を除いてそんなに多くはいないでしょう。
文脈がなにやら拙い言葉遊びのような様相を呈しますが、いったん慣れっこになった「常識」に、人は執着してしまいがちで、このように「常識」に執着することを仏教では「習気」と言います。これは梅園が最も嫌ったものとされ、「習気に捕らわれていると心のはたらきが起こらず、ものごとを広く見通すことができない」と梅園は見解しています。長い間に人から日常的に身につけさせられる「常識」には、そもそも「常識自体」を批判する能力をもち合わせていないのかもしれません。 梅園の思想はこの「常識」への批判をおこす「常識批判」から始まっているとも言われています。幼少のころの梅園は物事を何でも疑う性質があったようで、この頃から「懐疑」という「知的営み」に目覚めていたのでしょう。
梅園は、勉学に労を惜しまぬ人であったらしく、旧宅から遠く離れた村に西白寺という禅宗のお寺がありますが、十代半ばの頃、中国の書物を読むのに、自宅には辞書が無いがこの寺にはあることを突き止め、分からない字を引くために月に何度も通ったそうです。また十代の後半になると、往復三十キロはあるであろう山越えの道のりを、杵築まで毎日通学していたと言われています。
また、その生涯のほとんどを当時杵築藩であった富永村で過ごす中で、自然界の現象には決まった筋道がある事を見いだし、数も統合と分割の一と二だけに絞って緻密な思索を繰り返すという、独創的な手法で「条理学」という思想を三十代の頃、構築するに至りました。
梅園は人が不思議としない事を不思議として捉え、自らの問いとして思索を深めていったのです。これは、リンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したニュートンを同じように連想しますが、考えの土台が違うようです。片や数学で、梅園は古代中国の易の陰陽を基本としたと言われます。
梅園は多数の著書を遺しましたが、主な著書に「梅園三語」と言われる「玄語」、「贅語」、「敢語」があります。どれも難解で、この紙面では解説不可能です。ただ、「玄語」については府内(今の大分市)で医者をしていた多賀墨卿に宛てた手紙「多賀墨卿君にこたふる書」で要点をわかりやすく解説。現代語訳も出版されており、梅園の哲学の精神を知る参考になるでしょう。
その手紙の中に前述の「習気」についての記述があり、その一説に「うたがひあやしむべきは、變にあらずして常の事也」という一文がありますが、この意味は、「突然に起こった事だけを意識するのではなく、日常、あたり前だと思ってきた事を懐疑し、どういうことなのだろうかと問うことが大切だ」と言うことです。
この観点から私たちを取り巻く昨今の社会情勢を注視すれば、どうにも腑に落ちない事が多いなと、つい問いかけてしまいたくなるのは私だけでしょうか…。 文頭に述べました、梅園は尊敬に値する人物であるというこの「常識」を、徹底的に検証することができる空間が三浦梅園資料館と、梅園旧宅です。ここには梅園の知的遺産が多数納められています。
この空間に佇めば、きっと「習気」から解脱され、あなたが問う梅園の真の姿を知ることができるでしょう。
注釈 *1帆足萬里:豊後国日出藩出身の江戸後期の儒学者・理学者。家老となり、藩政改革に尽力した。 *2広瀬淡窓:江戸後期の儒学者。漢詩人。江戸時代最大の私塾、咸宜園を創設。多くの英才を育てた。 *3易の陰陽:すべてのものが陰と陽で成り立ち、陰陽は互いに相反しながらも、別々のものではないという考え。 *4多賀墨卿君にこたふる書:岩波文庫『三浦梅園自然哲学論集』に原文・訳とも掲載。墨卿の読み「ぼつけい」も同書に従った。 *5變:へん/異常な出来事,社会的な事件が起こること。 写真キャプション 三浦梅園 肖像 ■三浦梅園旧宅/(国東市安岐町富清)安永4年(1775年)の建築で、昭和34年、(1959年)に国の史跡に指定されました。寄棟茅葺き民家で梅園が自ら設計したとされており、資料館が隣接しています。旧宅横の塾跡と裏山の墓も史跡で、参道も平成18年に追加指定されました。