日田市 廣瀬 淡窓
◆儒学者 教育者 漢詩人 天明二年四月一一日(一七八二年五月二二日)現在の日田市に誕生。安政三年一一月一日(一八五六年一一月二八日)没。(享年七五歳)
廣瀬淡窓(以下淡窓)と聞けば、広瀬大分県知事のご先祖で、地元日田の地で私塾「咸宜園」を開いた先哲・教育者であるという認識を持たれている方は多いでしょう。しかしその実、淡窓の多大な事績や、思想、哲学についてはあまり知られていないと思われます。後述しますが、ここが今、教育が失いつつある大切なものを含んでおり、同時に「警鐘」を鳴らしているようにも思えるのです。
まず、淡窓といえば知る人ぞ知る「三浦梅園」、「帆足万里」と並ぶ「豊後の三賢」のひとりに数えられています。なかでも、同じ儒教を学んだという共通点がある三浦梅園は、「宇宙と自然と人間、そしてその間に起こるすべての現象は天地自然の条理」とする「条理学」を唱えました。一方の淡窓は、「敬天の思想」を軸に置き、考察を深めながら実践に移していったのです。
存命期間が異なるので、両者の交流はありえないのですが、共に万物の根源を「天」として、畏敬したことが興味深く感じられます。 さて、淡窓は数々の名言を遺しましたが、この「敬天の思想」が如実に表出されているものに、「人、天を敬うことを知れば則ち、〈善〉は勉めずして成り。悪は禁ぜずして去る」が、あります。
ここで言わんとする事に、いちいち解説は不要と思われますが重要な点は、淡窓は性善説の立場をとり、生涯に渡り徹底的に「善」を貫いたことにあります。
その証左として「善行」を自らに課して記録簿を毎日つけ、月末に「善行の数」から「悪行の数」を差し引いて、月ごとの「善行の数」を集計しました。これが我が身を戒めながら「善行一万」をめざして実践した「万善簿」と言われるものです。この「善行」と「悪行」の基準は非常に厳しいものであり、「蚊を叩きおとす」ことすら「悪行」と数えたのです。
淡窓は「万善簿」を一三年近くかけ完成し、その後もこの姿勢を守り抜き、生涯を「善」に捧げたのです。このような生き方が、多くの塾生に尊敬され、慕われる源泉になったのかも知れません。
病弱だったこともあり、淡窓は家業の商家を弟の久兵衛に譲り、二四歳の時、「人材を教育するのは、善の大なるものなり」と考え、塾を開くことを決意しました。僅か数人でのスタートでしたが、評判が評判を呼んだのか、遠方からも多くの塾生が集まるようになり淡窓三六歳の時、「桂林荘」から塾を移設、その名を「咸宜園」としました。
ちなみに「咸宜」は「ことごとくよろし」と読み、《「士農工商」どの階級でも宜しい。》《偏り無く様々な学問を学ぶのも宜しい。》《いろんな個性があっても宜しい。》といったような淡窓の哲学、思想があっての塾名だったのです。
事実、入門時に年齢、学歴、身分の三つを奪う「三奪法」を施行しました。これは全員が平等の下に始まる仕組みで、加えて月々の成績を厳しくチェックし、毎月無級から九級にランクをつける画期的な成績評価、「月旦評」を採用することで塾生の向上心を育みました。
個性を尊重しつつ、徹底した平等・実力主義の教育と淡窓の慈愛溢れる人柄から、塾生は九州はもとより関東、東北からも集まり、淡窓の教えを直接受けた塾生は三〇〇〇人を越え、明治三〇年の閉塾までには、四六〇〇人を越えたとも言われます。まさに淡窓の教育にかけた情熱が偲ばれる数字ですね。
淡窓の思想から鑑みると「教育」とはいかなるものにも翻弄されてはならない「聖域」であると言えます。教育にまつわる問題が様々に取りざたされる昨今、一体誰の為の、何の為の教育なのか…。
現代こそ、淡窓の教えに真摯に耳を傾けるべき時だろうと思うのは、私だけでしょうか。
注釈 *1咸宜園:明の時代の袁了凡(えん りょうぼん)が「陰隲録」(いんしつろく)で書きあらわしたもので、万物の根源を天と称し、宇宙の主宰者を天帝と呼んで畏敬した信仰に基づくもの。淡窓はこの「陰隲録」を読み、自らの敬天思想を確立し、これが後に西郷隆盛の「敬天愛人」につながったとも言われています。 *2性善説:人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教主流派の中心概念とされました。 *3桂林荘:咸宜園の前身。現在、跡地は「桂林荘公園」となっており。敷地内には広瀬淡窓の石像や詩碑が建てられています。 *4:大村益次郎、高野長英、上野彦馬、長三州、清浦奎吾など、明治維新の担い手や、日本の近代化に活躍した人々が多く含まれています。 写真キャプション 廣瀬 淡窓 肖像 ■咸宜園(かんぎえん):廣瀬淡窓によりに文化14年(1817年)に創立された全寮制の私塾で、江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,600人に及んだと言われます。昭和7年(1932年)には咸宜園跡として国の史跡に指定され、平成27年(2015年)4月24日には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも認定されています。