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国東市 六郷満山

大分見聞録 この記事は約 5 分で読めます。

郷満山と聞いて、事情に詳しい地元の人々を除いては、この言葉に不思議な感覚を抱く人はおそらく少なくはないでしょう。全く予備知識がなければ、とある山の名前なのかと思うかも知れません。

識者によるとこの言葉は長い間、学会の謎とされていたらしく、実は大変深い意味があるそうです。それはさておき、まず六郷とは六つの「郷」(律令制における地方行政区画の最下位の単位〈里〉を奈良時代に改めたもの)のことであり、昔、国東半島の中心に鎮座する両子山(ふたごさん)から放射状に伸びる約二八筋の谷に沿って六つの「郷」〈里〉が開けました。

これらの郷は「和名抄」によると東回りに田染(たしぶ・豊後高田市)・来縄(くなわ・豊後高田市)・伊美(いみ・国見町)・国東(くにさき・国東町)・武蔵(むさし・武蔵町)・安岐(あき・安岐町)と呼ばれ、総称して「六郷」と呼ばれたと言われています。

またこの六郷にある寺院集団を総称して、六郷山と言っていますが、識者は、六郷山は国東の山という意味も多少はあるが、単なる山ではなく宗教的なニュアンスの「霊山」とか「寺」とか「社」という意味が含まれているという見解を示しています。 「仁聞菩薩」が開いた寺を六郷山と呼ぶのだそうですが、この六郷山寺院または、僧侶を総称するときには「満山」と言い、寺の集合体である「教団」として呼ぶ場合は「六郷山」とするそうです。このような複雑な呼び方をする寺は、全国に他になく、教団の成立事情に何かしら謎めいたものを感じてしまいます。

また、六郷山は天台宗比叡山無動寺の末寺であり、江戸の比叡山寛永寺は江戸時代に許されたましたが、六郷山はすでに平安時代に許されていたと言われ、このことは天台宗にとって、いかに重要な拠点であったかを物語っていると考えられるでしょう。

さて、ここで六郷満山を開いたと言われる「仁聞菩薩」について紐解くと、仁聞菩薩は、平安時代に九州に広まっていた母子神信仰の神母ともされ、宇佐神宮に祭られた八幡神の化身とされ、国東の山岳で七十年もの修行をしたという謎に包まれた伝説的人物です。豊後高田市の六郷満山「富貴寺」大堂の本尊の阿弥陀如来像を一本の榧の巨木から造ったとも伝えられています。

六郷満山は独特の山岳信仰と宇佐神宮やその神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰と、天台修験道と結びついて、神を仏とし、仏を神とする「神仏習合」の山岳仏教文化を形成していきました。また、六郷満山の各寺院は学問をするための「本山」、修行をするための「中山」、布教をするための「末山」に役割分担され整備・発展をとげ、最盛期には六五寺あったといわれ、現在でも、一番札所の宇佐神宮にはじまり、三十一番札所の両子寺までの「宇佐神宮六郷満山霊場」が構成されています。

奈良時代に始まり平安時代に栄えた六郷満山文化も時代に翻弄され受難の歴史を辿りました。特に、戦国時代にキリシタン大名大友宗麟の仏教寺院破壊の手にかかり、仁聞菩薩が養老二年(七一八年)に最初に創建し、六郷満山の中核をなした寺院と伝えられる「千灯寺」も焼き討ちに遭いました。さらに明治に移っては、新政府による神仏分離令と、それに連動して全国に広がった廃仏毀釈活動で、多くの寺院や、仏像が傷つけられ、さらに修験道の禁止令などにより、六郷満山文化は衰退を加速していきました。

しかし、降り掛かる様々な苦難の中にあっても、その度ごとに、六郷満山文化は里の人々の敬虔な信仰によって支えられ、息をふきかえし、脈々と歴史をつないで行きました、そして昨年は開山一三〇〇年の大きな節目を迎えたのです。

六郷満山に今に残る古き良きものや尊い教えには、根底に「だからこそと言える理由」があるからだと思うのは私だけでしょうか。

 

注釈 *1和名抄:平安時代前期の承平4年(934年)頃に作れた辞書。十巻本と二十巻本とが存在。多くの写本が存在し、特に二十巻本は律令制下の行政区画の国・郡・郷がまとめられており、地名研究の貴重な資料として重宝されている。 *2末寺:本山,本寺に従属する寺。 *3母子神信仰:母神と童神二神を祀る信仰で、母と子に宿る聖なる力、子育ての力を信じて、それを祭祀の対象とする。 *4六郷満山:神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。 *5修験道:山へこもって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた宗教。 修験宗ともいう。 修験道の実践者を修験者または山伏という。 *6廃仏毀釈:仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し、「毀釈」は、釈迦の教えを壊すという意味。神仏習合を廃して神道を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。 写真キャプション ■両子(ふたご)寺の金剛力士(仁王)像。江戸後期の作とされ、国東半島に数ある仁王像のなかでも最大級(総高245cm、像高230cm)と言われる。 両子寺(ふたごじ)は、養老2年(718年)に仁聞菩薩によって開創されたといわれる国東市安岐町両子の両子山中腹にある天台宗の寺院。  山号を足曳(あしびき)山と称し、本尊は県指定有形文化財である阿弥陀如来座像。六郷満山の中山本寺で、江戸時代には杵築藩の庇護を受け、修行の中心地として最高祈願所となり、六郷満山の総持院としての地位を占めていたとされている。

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