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竹田市 隠し切支丹

大分見聞録 この記事は約 5 分で読めます。

隠れ切支丹(かくれキリシタン)とは、時の政権が禁教令を布告してキリスト教を弾圧した後も、一八七三年(明治六年)に令が解かれるまで密かに信仰を続けた信者達を示します。これに平戸、天草を連想する方も多いと思いますが、切支丹大名「大友宗麟」のお膝元であった大分県でも当然のごとくキリスト教が隆盛しました。

しかし大友氏の衰退につれ、豊臣政権から徳川幕府に至るまでの長期に渡り弾圧が続き、多くの信者が隠れ切支丹となりました。その背景の中で、「隠れ切支丹」ならぬ「隠し切支丹」の可能性を説く推論が近年、竹田の地で浮上しました。

竹田市内の「直入町」と「久住町」の境はかつて「朽網(くたみ)地方」と呼ばれ、この地を支配した朽網氏はキリスト教に深い理解を示し、自らをルカスと名乗りました。乗じてその家族、家臣団を含む二六〇名も洗礼を受けたと言います。そして一五五五年(天文二四)には日本八大布教地となるほど、切支丹が急増したとされています。

さらに大友宗麟の外孫で後に、竹田岡城の城主となった志賀親次が臼杵でゴメス神父から洗礼を受けドン・パウロと教名を受けましたが、それに従じてか、この時期には岡領内で六〇〇〇人が洗礼を受け、領内の信者数は一五○○○人に上り、豊後国最多を誇るほどになりました。

その後、大友宗麟が死没、朽網氏が滅亡。朝鮮の役での大友義統の失態に伴い親次も失脚。彼は多くの切支丹を残しながらやむなく岡城を去ることとなりました。その翌年、一五九四年(文禄三年)、中川秀成が岡藩初代藩主となりますが、その兄の秀政は大阪の聖堂で一五八五年(天正一三年)に洗礼を受けていたようです。このように竹田では代々、時のリーダーがキリスト教と深い縁を持っていたことがうかがえます。このことからも、なんとなく「隠し」という雰囲気が漂ってくるではありませんか。

さて、この「隠し切支丹」説。「弾圧から隠れたのではなく、為政者と民がいっしょになって隠したのではないか…」の証左と思える切支丹遺物が、竹田に多く存在すると唱える識者の方の見解があります。

まず殿町の「切支丹洞窟礼拝堂」ですが、これが岡藩の重臣、古田重治の屋敷のすぐ裏手にあるということ。そして日本切支丹宗門史に、禁教令の後、神父フランシスコ・ブルドリノがこの洞窟に隠れており、それを古田が知らぬふりをしていたと記されていたということ。つまり匿っていたのではないかということ。さらに、一八七一年(明治四年)廃藩置県による岡城解体の際、表面にサンチャゴ病院と欧文で表記された鐘「サンチャゴの鐘」が発見されたこと。さらに加えて昭和三六年。「聖ヤコブ」と思わしき石像(この石像の成分は地中海沿岸の国でとれる砂岩であり、日本国内のものではないとのこと)が岡城西の丸の稲荷社のあった付近の藪から見つかったということから、識者は藩主がキリスト教を黙認し、匿っていたのでは?との見解を示しています。

これらは、あまたに現存する切支丹遺物のほんの一部ですが、たとえ「隠し切支丹」説が推論に過ぎないとしても、少々乱暴に言うと、仮説を基に常識的な歴史観にひとつひとつメスを入れていくエネルギーが、故郷の新たな素顔を掘り起こし、深い魅力を創造していくことに繋がることも確かではないかと思います。

 

注釈 *1禁教令.(キリスト教禁止令)1549年、キリスト教がイエズス会のザビエルによって伝えられ、南蛮貿易とともに宣教師の活動が拡大。17世紀初頭まで西日本 中心に広がりを見せた。しかし、古くはキリスト教が封建制度を脅かすとして豊臣秀吉の伴天連追放令から本格的な禁教が始まり、江戸幕府二  代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光に渡って禁教が強化され、1637年島原・天草一揆の後、さらに強められ多くの信者が迫害をうけた。 *2中川秀成.中川秀成の父である清秀はキリシタン大名「高山右近」とは従兄弟、キリシタンであったとも言われる茶人大名「古田織部」とは義理の兄弟であったが故に、 秀成にとって、キリスト教はとても身近なものだったと推測される。 *3古田重治.ヨハネ・ディダーゴ洗礼名を持つ岡藩家老。切支丹と言われた茶人大名古田織部の末裔とされる。」 *4日本切支丹宗門史.明治のフランス外交官で日本研究家パジェスの著。1598年から1651年に至る日本キリシタン史を綴ったもの。1869年出版。 *5聖ヤコブ.新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、イエス・キリストに最も近かった聖人。 *6.元々は、信者から没収した切支丹遺物を収蔵した「不浄蔵」と言われた場所を、岡藩が稲荷社に変えてサンチャゴの鐘やその他の遺物を隠していたのではないかと言われている。 写真キャプション ■サンチャゴの鐘/(国指定重要文化財)明治四年、岡城を取り壊す時に発見されました。もともとは長崎のサンチャゴ          病院附属教会にあったと物とされています。 ■切支丹洞窟礼拝堂跡(県指定史跡)/武家屋敷のある殿町の谷あいにある切支丹洞窟礼拝堂跡。岩盤に掘り込んだ内部はドーム状の祭壇になっており、前面には五つの窓と屋根部分がくりぬかれています。隣には宣教師が住んだとされ洞窟があります。

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