大分市 国指定史跡 亀塚古墳
古墳といえば、学生時代に歴史の授業で習った大阪府にある日本最大の前方後円墳「仁徳天皇陵古墳」を連想する方も多いのではないでしょうか。関アジ・関サバで知られる豊後水道に接し、瀬戸内海に臨む我が大分県は、意外にも、知る人ぞ知る〝古墳の宝庫〟なのです。
古墳と海に何か関わりがあるのでは? 大分市には、今回のテーマである「亀塚古墳」をはじめ、壬申の乱(六七二年)でその名をあげた大分君恵尺(おおいたのきみえさか)の墓として伝えられている「古宮古墳」、横穴式石室に彩色壁画が施された日田市のガランドヤ古墳(現在非公開)、群生する鮮やかな彼岸花で有名な、竹田の「七ツ森古墳群」など、県下には大小あわせると数十基、かなりの数の古墳が存在しています。
さて、大分県最大の前方後円墳とされる「亀塚古墳」は豊後水道を眼下に坂ノ市地区の里の丘陵に築造されており、平成八年に国の史跡に指定されました。築造時期は四世紀から五世紀頃と推定されており、全長は約一一六メートル、(前方部長五二メートル、後円部、直径六四メートル)。高さは前方部、七メートル・後円部、一〇メートルという威風堂々たる姿を見せています。墳丘は、三段に構成され、各段のテラスに白い玉砂利が敷き詰められ、赤い埴輪が整然と並べられています。
この古墳では、家形埴輪片、舟形埴輪の船首部分、楯形埴輪片が見つかり、くびれ部の埴輪にはスイジガイをモデルにした模様があしらわれており、これについては九州では初めて発掘されたものとされ、その歴史的価値が高い評価を受け、国の史跡として認定されるきっかけのひとつになったようです。スイジガイの模様から「亀塚古墳」が海に関わる特別な場所であったであろうと推測されます。 後円部に埋葬施設が二つ発見され、ひとつは中央に位置し、海部地方に産出する緑泥片岩を使った箱式石棺であり、長さ三.二メートル幅一メートル、深さ一.二メートルの大規模なもので、三〇〇点をこえる曲玉や管玉、ガラス小玉の他に短甲や太刀、鉄鏃片などの武器が出土しました。その東側には、凝灰岩製のくりぬき式石棺が安置されていた痕跡から、もうひとつの埋葬施設の存在が推測されています。
では、この古墳に埋葬された(被葬者)のはいったい誰なのか?。古墳の規模や埋葬品からみて、この地域一帯で強大な力を持っていた人物であろうことに疑いはないでしょう。昔から海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀、豊後国風土記に豊後水道、瀬戸内海の航行を司り、大和政権に重要な役割を担っていたといわれる「海部」についての記述があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたのではないかと考えられています。 この地区の周辺道路や宅地開発の調査が進む中、深い竹やぶの中から蘇った海と共に生きた古代の人々の息づかい、そしてロマン。ふるさと大分には、まだたくさんの歴史ドラマが眠っているのかもしれない…。
亀塚古墳のテラスの最上部に立ち、瀬戸内海、四国、中国地方、そして国東半島、九重山、由布山、鶴見山、祖母の山々まで見渡せる壮大なパノラマを前にすると、こんな思いが込み上げてくるかも知れませんね。
注釈 ※1スイジガイ:(水字貝)巻貝の一種で6本の突起がある特徴的な貝殻で知られる。名前はこの形が漢字の「水」に似ていることに由来し、沖縄では昔から魔除けの呪具として扱われている。 ※2緑泥片岩:(りょくでいへんがん)結晶片岩。暗緑色でつやがある。庭石などに利用される。 ※3鉄鏃片:(てつぞく)鉄製のやじり。日本では弥生時代から見られ、古墳時代以降多く使用された。 ※4:海部(あまべ)漁業と航海に習熟した海辺の漁民を言い、海産物の貢納と、優れた航海技術で朝廷に奉仕したと思われる職業部。 写真キャプション 埋葬施設(第一主体部) 地元産出の緑泥片岩を使ったいわゆる「海部(あまべ)の石棺」といわれるもので、石棺内部は遺体を安置した部分と数々の副葬品を納めた部分に区分されています。海部の王の権威をうかがわせる県下最大の石棺。