お城女子必見!「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎ゆかりの岡城跡
「日本100名城」に選ばれた大分県竹田市にある岡城跡を知っていますか?あの有名な「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎が構想を練った城跡なのですが、意外な事実がありました。今回はこの天空の城「岡城跡」について詳しくお伝えします。
Contents
岡城はだれが築城したの?
大分県豊後大野市の緒方町一帯は古くは緒方庄と呼ばれ元々は全国的にも有名な宇佐神宮の荘園で、その荘官だった緒方三郎惟栄は平重盛(たいらのしげもり)と主従関係にありました。
しかし平安時代、治承4年(1180年)平氏政権に対する反乱、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で源頼朝が挙兵すると、平氏の好き勝手なふるまいを嫌っていた緒方三郎惟栄は、平氏の御家人でありながら近隣の臼杵氏・長野氏などと共に平氏に反旗を翻しました。
寿永2年(1183)に木曽義仲の軍に追われ平家が都落ちして大宰府に入ると、九州武士団を率いて一気に平家を九州から追い落とし、平氏滅亡のきっかけをつくりました。
その後も源氏と組み、壇ノ浦の戦いで活躍しますが、次第に源義経と兄頼朝との対立が深まるなかで、義経と共に九州に渡り再起を画策しました。その義経を迎え入れるために築城されたのが岡城であると言われています。
岡城の歴史 鎌倉時代初期の猛将、緒方三郎惟栄
豊後大野市の緒方町一帯は古くは緒方庄と呼ばれ元々は宇佐神宮の荘園で、その荘官だった緒方三郎惟栄は平重盛(たいらのしげもり)と主従関係にありました。
しかし平安時代、治承4年(1180年)平氏政権に対する反乱、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で源頼朝が挙兵すると、平氏の好き勝手なふるまいを嫌っていた惟栄は、平氏の御家人でありながら近隣の臼杵氏・長野氏などと共に平氏に反旗を翻しました。
寿永2年(1183)に木曽義仲の軍に追われ平家が都落ちして大宰府に入ると、九州武士団を率いて一気に平家を九州から追い落とし、平氏滅亡のきっかけをつくりました。
その後も源氏と組み、壇ノ浦の戦いで活躍しますが、次第に源義経と兄頼朝との対立が深まるなかで、義経と共に九州に渡り再起を画策しました。その義経を迎え入れるために築城されたのが岡城であると言われています。
しかし大物浦(だいもつうら)〈兵庫県〉から出航してまもなく嵐に遭遇、船は難破し義経とは離散することになります。義経は弁慶とともに奥州平泉へ逃げ、惟栄は捕まり群馬県沼田荘に流され、豊後を支配していた惟栄ら大神(おおが)一族も大友一族にとって替わられました。惟栄はその後許されて豊後の佐伯に戻ったとも、病死したとも言い伝えられています。
ちなみに、惟栄は祖母岳大明神の神裔(しんえい:神の子孫)という伝説がある大神惟基(おおがこれとも)の子孫で、臼杵惟隆(うすき これたか)の弟。「平家物語」に登場し、地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られ、兄の臼杵惟隆らと共には臼杵石仏を始めとする、すばらしい地方文化を築き上げたとされています。
大分県豊後大野市緒方町上自在の国道502号沿いに、緒方三郎惟栄館跡(豊後大野市指定史跡)があります。ここは古くから惟栄館跡と言い伝えられ、岡藩の儒学者、唐橋君山らによって江戸時代、享和3年(1803年)に編纂完成した豊後国の地誌である「豊後国志」には、「緒方三郎惟栄館跡緒方郷上自在ニ在リ」と記されています。
かつては緒方神社と呼ばれる小さな社がありましたが、大正年間に消失し、現在は石の祠(ほこら)と鳥居が残っているのみです。祠には緒方三郎惟栄の石像が祭られています。
岡城は志賀氏代々の居城になる
南北朝中期、大友一族志賀氏が直入郡に進出。室町時代、応安二年(1369年)以後、岡城は志賀氏代々の居城になりました。
志賀氏が直入郡に入部したこの時は、騎牟礼城(大分県竹田市飛田川字古城、現在は公園になっています)を居城としていましたが、岡城に本丸を築くなどの改築を断行。以後岡城は志賀氏代々の居城となりました。「岡城」と名づけたのは、この改築を行った志賀貞朝といわれています。
安土桃山時代、天正14年(1586)九州統一を目指していた島津軍との豊薩戦争では島津義久が3万7百の大軍を率いて阿蘇方面から肥後街道沿いに豊後へ侵入し当時九州6ヶ国に勢力を誇っていた大友軍をことごとく攻め落とし、岡城に襲来しました。
この時、18歳の若さで大友一族の筆頭である志賀氏の家督を次いだ岡城主、志賀親次(ちかよし)は若干20歳。わずか千名の兵で岡城に立て籠り、3度にわたる島津の大軍の攻撃を撃破して難攻不落の城として岡城の名を天下にとどろかせました。
しかしその後、文禄2年(1593)文禄の役で大友氏の当主、大友義統(よしむね)が豊臣秀吉の命令による朝鮮出兵の際、敵の大軍来襲の知らせを聞き逃走したため、豊臣秀吉によって所領を取り上げられ衰退しました。
その影響で、同じ大友氏一族である志賀氏も十七代約二百年余り城主として君臨した岡城を、同年去ることになりました。
ちなみに城主、志賀親次はドン・フランシスコ大友宗麟の孫にあたり、家族に内緒で臼杵の教会に出かけ、ゴメス神父から洗礼を受けドン・パウロを名乗りました。彼の信仰心は大変厚く、腕に十字の刺青を彫り、城の瓦すべてに十字を入れたと記録されているそうです。
改修、近世城郭として整備
志賀氏にかわって文禄3年(1594年)播州国三木城(兵庫県三木市)から中川秀成(ひでしげ)が入封し7万石で岡城主になりました。
秀成は岡城の大修築にとりかかり、3年をかけて二の丸・三の丸を整備し、本丸には三層三階の天守と本丸御殿、二の丸には月見櫓・御風呂櫓、三の丸には武器庫などを築きました。
志賀氏時代の城郭を基盤にして、近戸口(ちかどぐち)〈出入り口となる門〉の開設、竹田の城下町割などを手掛け近代城郭としての形態を整えました。明治2年(1889年)まで十三代二百七十五年続きましたが、版籍奉還により岡城をはなれ、城の建造物は明治7年(1874年)すべて取り壊され荒城となりました。
「荒城の月」 天才作曲家の瀧廉太郎
作曲家「瀧廉太郎(1879年(明治12年)~1903年(明治36年)」は地方官であった父、瀧吉弘(たきよしひろ)の仕事の関係で豊後竹田で12歳から14歳までの多感な時期を過ごしましたが、荒れ果てた岡城趾は彼の格好の遊び場であったらしく、名曲「荒城の月」は幼き日の廉太郎の心を染め抜いた岡城のイメージから作られたと言われています。
この曲は七五調の歌詞と西洋音楽のメロディが融合した名曲で、作詞は島崎藤村と並び称される詩人・英文学者「土井晩翠」(どいばんすい)です。
廉太郎は23歳の若さで他界しましたが「荒城の月」は日本中で愛唱され現在に至り、同時に「岡城」の名も全国に知れ渡るようになりました。また、岡城趾二の丸には竹田高等小学校での廉太郎の後輩にあたる、東洋のロダン「朝倉文夫」作の瀧廉太郎像が設置されています。
天空の城 岡城跡の見どころ
岡城は阿蘇山系の溶岩台地を流れる稲葉川と白滝川によって浸食されてできた海抜325mの天神山山頂に築城され、二つの川が深い渓谷をつくり四方が絶壁に囲まれているという、難攻不落の城と呼ばれるにふさわしい天然の要塞でした。
岡城跡は国の史跡に指定されており、巨大な石垣群が残るだけのまさに「荒城」そのものの山城です。
駐車場から「荒城の月」のメロディー
今では駐車場になっている惣役所跡から「荒城の月」のメロディーを聞きながら城跡をざしてを登ってゆく大手門跡。
志賀氏時代の大手門は東向きだったそうですが朝日がまぶしいため、中川秀成が熊本城城主、加藤清正の助言に従い西向きに築き直したと伝えられており、古い大手門跡も現在残っています。
岡城で最大の石材
大手門跡から平坦な道を100mほど進むと主郭部の堅牢な石垣が見え、貫木門跡から太鼓櫓門跡に着きます。
この太鼓櫓門は本丸・二の丸・三の丸への出入り口とされ、この櫓門跡の石垣には岡城で最大の石材を使用しており、さらに石材を完全 に四角に整形して石と石との歯口を密着させ、目地に隙間を作らない「切り込みはぎ」という精度の高い技術を用いた石垣で構成されています。
足が震えるほどの深い谷
太鼓櫓門跡を過ぎると志賀氏時代に城主が居住した三の丸跡があり、ここから九重連山の壮大な絶景が見渡せます。
三の丸跡は清水谷の底から約70mほどの高さにあり、急な絶壁に石垣が築かれていて、二の丸跡も石垣の下は地獄谷と呼ばれているだけに、石垣の上から覗くと足が震えるほどの深い谷となっています。
また、清水谷と地獄谷の谷底には古い地蔵や石像が見られると言われていますが、熱心なキリシタンであった当時の城主志賀親次が偶像崇拝を嫌い、城の敷地内にあった神社、仏閣をすべて壊し、城の下の谷に仏像を投げ捨てたからとされています。
岡城 本丸跡の三階櫓跡
二の丸跡には73mの深さがある空井戸があり、滝廉太郎の像が建っています。本丸跡の三階櫓跡と御金倉跡の高石垣も見事。
本丸跡からは周囲の山々の素晴らしい絶景が眺められます。大手門跡近くに西の丸御殿跡があり、江戸時代後期には藩政の中心的場所だったと言われています。
この西の丸の土蔵の中には、幕府に見つかれば藩は取り潰される危険性があるにもかかわらず明治初期に城を取り壊すまでキリシタン遺物であるサンチャゴの鐘と聖ヤコブ石像が隠されていたようです。
このことから当時の城主、中川秀成はキリシタンだったのではないかと推測されますがはっきりした洗礼の記録がないため不明となっています。いずれにせよ中川氏も志賀氏と同じくキリスト教に寛大であったと言えるでしょう。
難攻不落の城 岡城
白滝川を隔てて、深い谷底から高くそびえる断崖絶壁の上に大きな石垣が連なる壮大な岡城跡全体を眺めれば、わずか千名で城に立て籠り、薩摩島津勢3万7百の大軍の三度に渡る猛攻を退けることができた難攻不落の城だったということがうなずけます。
まとめ
緒方氏から志賀氏、中川氏と三代に渡って、城主が替わって行く中で、その時代時代に求められる形に城も変遷をとげ洗練されて行きましたが、最期には建物すべてが取り壊され「荒城」となってしまいました。
しかしその歴史の上に、竹田とゆかり深い滝廉太郎の音楽という文化が重ね合わされ、さらに深みを増し、今もなお歴史遺産として人々に愛され、語り継がれているその魅力は尽きる事はないでしょう。
知れば知るほど、味わい深い「岡城」はいかがだったでしょうか。
「岡城」を仰ぎ見る城下町「竹田」も数多くの歴史的な神社仏閣、さらに江戸時代末期の南画家の巨匠、田能村竹田(たのむらちくでん)の旧竹田荘や滝廉太郎記念館、武家屋敷などの歴史・文化的遺産が存在していますが、それを基盤に新しい様々な文化活動が融合し、独特な風合いを持つ観光地として魅力的な熟成を続けています。
ぜひ一度、岡城の城下町竹田へ訪れてみてください。