大分市 府内城 (荷揚城)県史跡及び市史跡
府内城を築城したのは誰?
豊後国大分の大名と言えば、大友宗麟をまずイメージしますが、大友氏(義統)は一五九三年に豊臣秀吉により改易(領地没収)され、その後に府内城は築城されました。(大友氏の居館は大友館)
府内城は大友氏の後、一五九七年に入封(大名がその領地に入ること)した福原直高によって築城が開始され、江戸時代に府内藩主になった竹中重利によってほぼ形が出来上がったと言われています。
藩主の居館と武家屋敷により構成されるという近世城郭の特徴を残すこの城は、大分川と住吉川に挟まれ、かつては海辺に面し白土の壁と、水上に浮かぶかのようなその姿から「白雉(はくち)城」とも呼ばれたようです。高低差がほとんどない平城であり、三つの郭(周囲を土や石などで築き巡らしてある囲い)と三重の堀からなっていましたが明治末期に三の丸外側、二の丸内側の堀は埋め立てられ、二の丸、三の丸を区切る堀のみ現存しています。
一五九七年、秀吉の命をうけて築城に取りかかった福原直高は、当時「荷落(におろし)」と呼ばれていた所を築城地としましたが、地名を嫌い「荷揚(にあげ)城」としました。また地形上の湧水で築城が難行したため六坊町に住む孝行娘、お宮が人柱に立ったと言われ、天守台の西側には、お宮を祀った祠があります。
竹中重利の時代になると、当時の城造りの最先端技術が導入され、天守閣や櫓、門、砦、武家屋敷など城の修増築を促進。同時に本格的な城下町の建設・整備も行われ、現在の大分市のおおよその形はこの頃に作られたと言われています。
かつては、四重層の天守を持ち、二十三の櫓と五つの門、三ヶ所の廊下橋が築かれた壮大なスケールを誇っていた城でしたが、度重なる大災害で甚大な被害を受けました。さらに明治維新以降、廃藩置県により二の丸、三の丸も取り壊され本丸のみとなり、昭和二十年の大分大空襲では多くを焼失しましたが、「宗門櫓」や「人質櫓」は難を逃れ現在、県指定の貴重な文化財となっています。それ以外の部分も市の指定史跡として保護されており、二〇〇六年には日本一〇〇名城の一つとして選定されています。府内城の跡地、(大分城址公園)では江戸時代一七四三年に焼失した天守閣を、高さ二十九メートルの金属パイプを組み上げて再現。約七万球のLEDを巻き付けて現代に蘇らせています。幻想的な歴史ロマンをぜひご覧ください。
写真キャプション ■大手門(多聞櫓門・たもんやぐらもん)府内城址の玄関口。大分大空襲で消失、1965年に復元されました。 ■大分川、住吉川にはさまれ、かつて海辺に面して築かれた府内城は、白土の塀と、まるで水上に浮かぶかのような姿から、「白雉(はくち:白いキジ)城」とも呼ばれています。